細田守監督のアニメ映画について違和感を覚える人がいるのはなぜか

1.はじめに

 細田守監督のアニメ映画『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』『バケモノの子』に関しては、高い評価がある一方で、「違和感がある」「好きになれない」といった意見も、相当数みられます。本稿では、その違和感が何に由来しているのか、個人的な考えを述べていきたいと思います。
 また、この記事は、柴田英里さんのweb連載『トゥルーウーマン・ショー〜欲望と所有にまつわるエトセトラ〜』の記事、「『バケモノの子』『おおかみこどもの雨と雪』『サマーウォーズ細田守作品における女性ヒロインと家父長制」(こちら)のアンサーともなっているので、後半では、そこへのコメントもしたいと思っています。

2.細田作品の基本的スタンス

 オリジナル脚本で映画を作るようになってから、細田監督の映画には、物語の「目的地」が設定されるようになっています。それぞれの映画には「ここから出発して、そこに至るまでの物語」である、という明確なコンセプトがあって、そこにブレがありません。
 さらに、その目的地は、物語の出発点からの距離が相当に遠く、簡単にはたどり着けない場所に設定されています。
 その目的地へと四苦八苦してたどりつく、というのが、細田監督の映画のスタイルです。言い換えれば、難易度の高いプロットがあって、それを成立させるために、技術を尽くしているわけです。
 エンターテインメントだけを指向するのであれば、目的地までの距離は、そこまで遠くする必要はありません。ただし、細田監督は、自らの設定した「目的地」まで届く作品を作ることが、自らの映画を世に問う意味につながる、と考えているようで、その点については、実に頑固です。


 しかしながら、そのような方法には、弊害も生じます。映画を作っている方は「目的地」を熟知して製作しています。当然ながら、「目的地」から逆算した調整も生まれることとなります。しかし、映画の観客は、「目的地」など知るはずもない状態で、その映画を観なければなりません。
 「目的地」から逆算すれば、腑に落ちることも、予備知識無く最初から観ると、全く腑に落ちない、ということは当然あります。その場合、観客は、フラストレーションを感じながら映画を観なければなりません。
 観終わって振り返って考えれば、いろいろと納得することも多いのですが、全ての観客に、それを求めるのは酷でしょう。
 細田映画はエンターテインメントではありますが、その少し先に行けたら、と「目的地」を定めた作り方をしています。物語を「目的地」に届かせるためには、逆算を使わざるを得ない場合もあります。そのために、エンターテインメントの文法からはみ出した部分が生じ、観客にフラストレーションを与える場合があるのだと考えられます。


 また、プロットの難易度が高いことから、キャラクターの行動や心理に、不自然さや矛盾を生む場合もあります。『おおかみこどもの雨と雪』の花なども、かなりプロットに振り回されています。
 近年の細田作品で描かれてきたのは、キャラクターを成立させるためのプロットではなく、プロットを成立させるためのキャラクターであった、という理解はしておいたほうがいいかもしれません。
 細田作品において「このキャラクターの行動は納得がいかない」とモヤモヤしたときには、その行動が、プロットや物語の「目的地」に対して、どのような位置にあるかを考えてみると、腑に落ちる部分が増えるかもしれません。
 宮崎駿監督は、脚本を書かずに絵コンテを切って映画を作っていました。この場合、キャラクターがあって、物語の枠組みは、その後で決まるわけです。細田監督の場合、これとは逆に、物語の枠組みがあって、キャラクターが決まってくるわけです。


 なお、細田作品のプロットの概要に関する自分なりの解釈は、以下のようなものです。

サマーウォーズ

 親類一同が集まる誕生会が、葬式に変わるまでを描く。その過程で世界を救う。描くのは4日間。

おおかみこどもの雨と雪

 現代において異類婚姻譚を描き、ハッピーエンドに着地させる。混血の子供については、誕生から、自立の一歩目までを描く。描くのは13年間。

『バケモノの子』

 少年のバケモノ社会での修行と自立を描くとともに、その先の人間としての自我の揺らぎや、人間社会での自立についてまでを描く。描くのは9年間。

3.各作品の論評と柴田英里さんへのコメント

 以降では、柴田英里さんの記事「『バケモノの子』『おおかみこどもの雨と雪』『サマーウォーズ細田守作品における女性ヒロインと家父長制」( こちら)へのコメントをしていくとともに、各作品の分析をしていきたいと思います。

3-1 『サマーウォーズ』について

花札バトルの代表として夏希が選ばれた理由 (柴田英里さんの記事へのコメント)

 夏希が、トロフィーワイフ的な存在であることは否定しません。ただ、登場人物が非常に多い中で、内面描写が乏しいのは、彼女だけではありません。少なくとも、女性であるから、内面描写が乏しいわけではないと思います。
 夏希が花札バトルの代表に選ばれたのは、おそらく替え玉を使うほどに「馬鹿」で「度胸があった」だったからでしょう。彼女は、物語の中で、馬鹿だ、愚かだと言われていますが、一方で、陣内家についても「負けると分かっていても戦う馬鹿な一族」との宣言がありました。
 20のアカウントでバクチをして、4億のアカウントに勝つのは、20円の宝くじで4億円当てるようなものです。確率2000万分の1、勝てるわけがありません。ただ、スタンドアローンのコンピューターでは勝ち目はありませんが、ネット空間であれば「何か」が起きる不確実性があります。
 このような場合、代表で戦うべき人物は、「どう考えても勝ち目がない」とあきらめる人物でも、「早く何かが起こってくれないか」とキョロキョロする人物でもありません。「勝てる確率はゼロじゃない!うおおお!」という曇りのない馬鹿が必要なわけです。一族の中では、それは夏希でしょう。
 また、他人のアカウントを託されたのは、「勝ち目のない戦いに必死になっているから」が理由なわけですが、勝負中の夏希にそれを言うわけにはいかないので「美人だから」と混ぜ返した、という解釈が自然だと思います。

「親族で悪いことをするのは妾の子」について (柴田英里さんの記事へのコメント)

 侘助がラブマシーンを開発したのは「栄おばあちゃんが高齢のため」です。生きているうちに何としても成果を見せたかった。栄への侘助の思いは、完全にマザコンです。
 侘助の設定において大事なのは、妾の子であることよりも、栄おばあちゃんとの血縁がなく、血縁者と婚姻で結ばれてもいない、ということです。
 作中で最もクローズアップされる栄と侘助との人間関係は、血縁とも婚姻とも関係がない。血縁や婚姻を、無条件に賛美しているわけではないことの象徴となっています。

「身内の尻拭いは親族の務め」について (柴田英里さんの記事へのコメント)

 この台詞を言った時点で、栄おばあちゃんは、ほぼ死期を悟っています。侘助への「今ここで死ね」というのは、自分に向けて言っているのだし、「身内の尻拭いは親族の務め」での「身内」とは、自分のことです。「自分にはもう後始末が出来ないので、後は頼んだ」と遺言をしているのです。

「日本の田舎いいなあ、大家族っていいなあ〜」について (柴田英里さんの記事へのコメント)

 大家族賛美の要素は、確かにあります。しかし、作中で、その構造が変化していることには、注意が必要です。
 最初の宴会では、家父長制(女性が長ですが)のヒエラルキーが機能しています。
 しかし、家父長である栄の死を経て、対ラブマシーン戦が本格的に始動すると、指揮系統は、外縁部(宴会に参加しなかった佳主馬、よそ者の健二、よそ者を引き込んだ夏希)に移行します。
 そして、みんなで飯を食い、花札をする段階で、家父長制のヒエラルキーはもはや機能していません。対等な個人同士の結合があるばかりです。
 ストーリーの進展に伴って、家父長制のヒエラルキーは(リモートで)解体されていきます。大家族という集団を、そのままの形で賛美しているのではないのです。

3-2 『おおかみこどもの雨と雪』について

全体的な解説

 この物語の弱点は、「異類婚姻譚を現代で描く」「子供の一人は狼にする」というコンセプトの難易度にあります。
 観客は、この世界で「狼の子であることがばれる」ことが、どれほどのリスクなのか、正確に判定することが出来ません。あっという間に狼に変わるというのは、全ての物理法則、化学法則を塗り替えるという解釈もできますし。
 主人公の花が、助産師なしで出産したり、予防接種を受けさせなかったりするのは、明らかな虐待です。「狼の子であることがばれる」のとのリスクが分からないまま、これらの虐待を、やむを得ないことと考えていいのか、そこに引っかかる人が多いのは当然でしょう。
 そこまでして、細田監督が異類婚姻譚にこだわったのは、ケモナーとしての血もあるのでしょうが、「特殊な一例を描くことで、むしろその経験が一般化される」ことを狙ってのことでしょう。観終わって、なんだか自分の人生を思いだしてしまうような作品になっているように思います。

プロットについて

 『おおかみこどもの雨と雪』中盤までの、おおまかなプロットの流れは、以下のとおりとなります。しかも、映画1本で13年を描くため、枝葉を刈り取り、短い時間で、これを表現せねばなりません。


  狼についてのあれこれを十分に知らぬままシングルマザーになってしまう →
  狼のことが露見するのを恐れて視野狭窄に陥り、周囲の援助を断ち切って孤立する →
  かなり捨て鉢に田舎に引っ越す →
  幸運にも行政と周囲の援助が得られ生活が安定する


 狼男と花の出会いは、安アパートがある場所でないと成立しにくい。一方、息子が狼になるとしたら、後半は山の近くでなければいけない。シングルマザーになった花は、その時点で、若く未経験で自信が無い状態としたい… などと考えると、花の設定は、針の穴を通すようなものです。
 花の行動原理については、疑問を感じる方も多いように思いますが、過酷なプロットを体現するために、無理が生じている部分はあろうかと思います。


 また、花が東京で行き詰ったことに対し、批判する方がいらっしゃいますが、その場合には注意が必要です。「行き詰る」というのは、プロットとしてそうなので、批判はプロットに対してしなければなりません。
 キャラクターに対して、「こうしていれば行き詰らなかったのに」と言うのは、個人としての感想としてはアリとしても、批評には全くなっていません。「こういうプロットにしてほしかった」というほうが、妥当性は高いでしょう。
 プロットの問題とキャラクターの問題の区別がついていない批判は、ミステリーで「人を殺すべきではない」とか、『ボヴァリー夫人』で「不倫をするべきではない」とか言うようなもので、全く本質的ではないです。

「頑張って国立大学に入学したのにおおかみ男と恋愛して妊娠し、大学に行けなくなってしまいます。」について (柴田英里さんの記事へのコメント)

 ご都合主義かもしれませんが、雨が生まれた段階では、花は大学を休学しているだけです。狼男が死んだ段階で、退学を決意したという描写がされています。
 花の人生設計が甘すぎるという意見はよく目にしますが、個人的には、狼男が生きていれば、綱渡りでも何とかやれたように考えています。
 例えば、花が大学に復学したら、狼男が仕事を辞めて、子育てをすることも可能なわけです。たかだか2年くらいのことでしょうし。狼男は正社員ではないようなので、それによる不利は限られます。体力は抜群ですから、力仕事系なら再就職できるでしょう。

嵐の教室について (柴田英里さんの記事へのコメント)

 柴田英里さんの記事では、嵐の教室のシーンについて、「娘の雪も、出自や思春期の悩みを抱えてはいますが、彼女の悩みは「好きな男の子に受け入れてもらえた」というただ一つの理由で雲散霧消してしまいます」と書かれています。
 あのシーンを見て、「悩みが雲散霧消した」と思えてしまうとは、よほど悩みの無い人生を送られてきたのでしょう。羨ましいです。
 あのシーンで雪が知ったのは、「誰にも言えない秘密を持っている人は自分の他にもいる」ということと、「誰にも言えないと思っていた秘密でも信頼して明かせる人はいる」ということでしょう。悩みが消えたのではありません。悩みとともに生きることについて、足掛かりをひとつ得ただけです。しかし、それは成長の足掛かりです。

3-3 『バケモノの子』について

なぜ蓮は勉強を始めたか

 通常のエンターテインメントであれば、異世界で修業して強くなった少年は、外敵に立ち向かって勝利する、というのが定石です。しかし、この作品では、なぜか蓮(呼称は蓮で統一します)が勉強を始めたりします。それは、この作品が、人の成長を描くものでもあるからです。
 バケモノは、強くなるだけでアイデンティティが確立され、揺らぎません。
 しかし、人間は強くなったとしても、生き方に迷い、ゆらぐものです。人の成長を描いていく以上、そのゆらぎを避けるわけにはいきません。
 また、生き方に迷う姿を描くうえで、人生の選択肢は、きちんと見せていかなければなりません。選択肢のひとつは、人間の世界で暮らすことになります。それを選択肢にするためには、人間の世界での自立が必要となります。勉強をすることによって、蓮は、バケモノの世界での自立とともに、人間の世界での自立についても、自信を持つことができました。
 リアルに考えると、人間の世界での自立には、いずれ就職が必要です。しかし、小学校低学年から学校に行っていないとなると、選択肢は限られてしまいます。高等学校卒業程度認定試験を受けるというのは、大学を受験しないとしても、就職の選択肢を広げるうえで、非常に合理的な戦略と言えます。

楓について (柴田英里さんの記事へのコメント含む)

 柴田英里さんの記事で、楓を蓮の「恋人」としていますが、そうでしょうか。
 センター街で一郎彦から逃げる時、緊迫した状況なのに、楓は蓮の手に触れ、手を握るのに躊躇しました。蓮と楓は、それまで手を握ったことも無かったのだと思います。


 個人的には、楓と蓮は相棒(バディ)だと思っています。楓を男性にしても、プロットはそのまま成立しますし。
 性別で言えば、蓮を女性にしてもよかったとも思います。宮崎駿なら、そうしたかもしれません(千と千尋が若干そんな感じ)。その場合、やっぱり楓は女性ですね。共闘する女の子は、かっこよさそうです。
 楓を女性にした理由は、そうしないとメインキャラクターが全員男性になってしまうから、ということと、バケモノの世界と人間の世界の差を見せたかったから、ということがあると思います。バケモノの世界は封建的で、女性の社会進出は進んでいないのに対して、人間の世界は、男性と女性に平等な職業選択の自由があり、高等教育を目指す女性がいる、という違いです。


 楓が、都合のいい造形のキャラクターではあることは否定しません。ただ、コミュ障人間としては、彼女に共感する部分も多いのです。ふだん人づきあいが無いぶん、何かで必要とされると、必要以上に張り切ってしまうというのは、コミュ障の典型のような気がします。
 また、楓の声に否定的な意見もありますが、世間話が苦手で、ふだん長く会話することのない人間が、一生懸命に声を出していると考えると、リアリティは感じられると思います。
 人間世界の楓は、バケモノ世界の熊徹に似ています。能力は高いですが、世間との折り合いが苦手で、弱点だらけ。熊徹は、蓮を弟子にして、飯と寝る場所を与え、自分の修業時間を奪われます。でも、熊徹はATMだったでしょうか。
 似たようなことで、蓮に勉強を教えながら、楓は蓮に奉仕していたわけではありません。自分が勉強をしている意味や、自分の将来のことを、自分なりに考えていたのだと思います。蓮が楓から教わったことと、楓が蓮から教わったことは、それぞれに多かったのでしょう。
 また、校門で、楓がクラスメイトから話しかけられるシーンでは、蓮との出会いを経て、楓の人づきあいが、多少上手になってきていることが暗示されています。


 映画の終盤、蓮と一郎彦の戦いに、楓がついて行ったのは、ヒロインだからという理由だけではありません。
 蓮と一郎彦だけの戦いであれば、それは超人2人の戦いです。しかし、楓がいることで、自分の力を暴走させた人間を、自分の力をなんとか制御している人間たちが止めに行く、という構図が作られました。決戦の場には、超人的な能力など何一つ持たない「死すべき定めの人の子」が必要だったのです。


 楓が結んだ栞のおまもりは、闘技場で蓮の暴走を止めました。しかし、楓は、蓮だから暴走を止めたわけではありません。
 代々木体育館で、楓は一郎彦を挑発します。「足手まといだ」「意味がない」という批判の多いシーンです。しかし、私には、楓のしていることが単純な挑発だとは思えませんでした。
 一郎彦は、自分が何者であるかも知らず、この力が何であるかも知らず、混乱のままに暴れています。
 それに対して、楓が言ったことは、「あなたは人間である」「心の闇が暴走しているだけだ」「こころの闇は人間なら誰でも持っている」「それは制御可能だ」ということです。これは、駐車場で、蓮に伝えたのと同じメッセージです。
 その後の「私たちが負けるはずがない」という台詞における「私たち」も、単に「蓮と楓」ということではなく、「蓮と楓と全ての人間たち」と解釈できます。そして、「私たち」に、「一郎彦」を含むという解釈さえ、不可能ではないのです。その場合、楓が言ったのはこういうことです。「自分に負けないで」
 闘技場での蓮を止めることにつながった言葉を、楓は一郎彦にも伝えに行きました。彼女はATMかもしれません。しかし、怖くて泣いていても、「ご用命とあらば、ラスボスのところにだって、お届けに伺います」という勇敢なATMなのです。