第184回三平堂落語会

 2015年6月20日に、ねぎし三平堂で開催された、第184回三平堂落語会を聴いてきました。座敷席、縁台席を中心とした小さな会場で、満員(50人くらい)の入りでした。

林家たま平『一目上り』

 『崇徳院』『千両みかん』『擬宝珠』の冒頭が似ていることは知られていますが、前座噺の『子ほめ』『道灌』『一目上がり』の冒頭も、似ていることに気づきました。開口一番が、どの噺に進んでいくかを予測していくのは、結構楽しいかもしれません。
 また、『一目上がり』では、隠居さんと大家さんが登場します。この二人が共演する噺は珍しく、前座が、この二人をどのように演じ分けていくかも、『一目上がり』の聴きどころのひとつです。

林家ぼたん『しめこみ』

 来春真打に昇進することが決まった林家ぼたんさん。女流落語家の次世代エースとして期待されています。『しめこみ』は泥棒と夫婦げんかの噺。
 女性を演じるときの視線、表情などが、実に的確で精度が高く、女性キャラの内面を、これほどの深度で表現することは、トップクラスの男性落語家でも困難だろう、というレベルでした。男性の演じかたは、それとは多少ギャップがあるのですが、現段階では、それはやむなし。
 男性落語家が演じる女性は、かなり様式化しています。それに対し、女流落語家では、比較的リアルに女性を演じられるのが、大きな武器となります。
 ただし、古典落語は男性が演じることを想定して作られています。男性しか出てこない噺も多く、主人公のほとんどが男性(例外は厩火事くらい)です。
 台詞の8割くらいは男性のもので、女性の長台詞もほとんどありません(例外はたちきりくらい)。落語で台詞のある女性は、おかみさん、遊女、お婆さんが多く、商家のお嬢さんには、最小限の台詞しかないなど、偏りがみられます。
 女性を演じることの長所が有効なネタの範囲は、どうしても狭くなります。そのため、どのようなネタの構成で勝負していくか、という戦略が、女流落語家にとっては特に重要になります。落語家としての幅を広げるために、男性だけの出てくる噺を、どうやって選定し、どうやって自分の武器に加えていくか、といった作業が必要となります。

『あくび指南』 林家鉄平

 昭和の爆笑王、先代林家三平師匠の弟子にあたるベテラン落語家。実子である林家正蔵師匠、当代林家三平師匠以上に、先代三平の遺伝子を、色濃く引き継いだ高座という印象でした。流れる空気が、その色なのです。
 演目の空気感ではなく、落語家のキャラの空気感で、観客を魅了するタイプ。演者の空気感でリラックスさせる、というのは、もちろんその裏に高い技術もあるのでしょうが、やはり、天性の素質というのが必要な気がします。ただ、予備知識なしでも、「あっ、この人は三平の弟子だ」と分かるというのは、天性のものに加えて、弟子としての修行で身につけたものが多い、ということの証明ではあるのですが。
 真打になった段階で、誰の弟子なのかすぐ分かる芸風の落語家、というのは、基本的にはいませんが、もちろん噺は受け継ぐわけです。先代林家三平師匠に関しては、教えたのは噺ではなく、空気だったのかもしれません。鉄平師匠は、噺を受け継ぐ以上に、空気を受け継いでいるように思います。

『唐茄子屋』 古今亭菊之丞

 古今亭菊之丞師匠くらいの力量があると、この規模の会場(50人程度)ならば、場を完全に掌握して、噺の展開に合せて、観客をぐいぐいと引きずり回し、圧倒することができます。そのときには、観客全員が、現実を忘れて没入している状態となります。久しぶりに、振り回されて、くらくらとする感覚を味わいました。大きなホール落語だと、なかなか、ここまでの感覚は得られません。
 噺の構成、シナリオも、よく計算されています。終盤の親子を助けるところは、そもそもの展開が強引で、省く演者も多いのですが、菊之丞師匠は最後まで演じました。これを入れないと、噺の構成が、あまりにも尻切れとんぼになってしまうのです。
 終盤を省略し、「放蕩者の若旦那が勘当され、自殺未遂を助けられ、更正のためにカボチャを売りながら、吉原のことを思い出して歌を歌う」というのでは、ドラマティックな前半に対して、あまりにも終盤が弱すぎます。生死のからんだ噺が、鼻歌で終わってしまう。
 しかし、例えば「1年間カボチャを売って勘当を許される」というのだと、何の面白みもない。密度の高い前半とバランスを取るためには、強引ではあっても、生死の絡む終盤は必須となります。
 そして、終盤を演じることを前提に、シナリオが練られています。例えば、「親父へのアピールにカボチャを売るのだ」という叔父の意図は、三遊亭圓生師匠の口演などでは、カボチャ売りに行く前に、明らかにされます。一方、菊之丞師匠の場合、若旦那が帰ってきた後で、叔父が怒りに駆られてうっかり口にする、と改められています。やはり、意図は知らないで売りに出たほうが、若旦那の本気度は高いような気がします。
 また、前半を演じる際も、必要以上にくどくしないようにアレンジしています。身投げから救った若旦那を家に置いて、叔父が諭すシーンでも、他の演者よりも省略を効かせて、ここぞというときにガツンと叱るかたちで、気持ちよく演じています。
 このシーンなどは、説教臭くしようと思えば、いくらでも説教臭くできますし、そうする演者も実際にいます。むろん、厳しく接する必要はありますが、客は基本的に若旦那に感情移入しています。「そうだな、このくらい言われても当然だな」と感じる程度にとどめることが肝要です。
 演者が、叔父に感情移入してしまって、くどくどといつまでも人生訓をたれると、むしろ演者の浅さが目に付き、観客はなんとなくいやな気持になるものです。
 唐茄子屋は、4つのパートに別れた噺です(身投げを救われるパート、カボチャを売ってもらうパート、吉原田圃のパート、親子を救うパート)。それぞれで深刻度が違うので、演じ分けがいるのですが、1本の噺としてのまとまりもつけなくてはなりません。短時間で、展開に応じた感情移入に、ぐっと引き込む演技の瞬発力も必要です。例えば、若旦那が吉原を思い出せば、ぐっと吉原の天国に引き込まれ、親子の隣人の話から、ぐっと自殺未遂の地獄に引き込まれる、その目まぐるしさは、この噺ならではのものです。菊之丞師匠の高座は、瞬発力と構成力を感じ取れるものでした。