落語立川流と立川談志に関する雑感

 先日、落語立川流の寄席を聴きました。以下では、その後にとりとめもなく考えたことについて、備忘のために記してゆくことにいたします。

1.古典落語のラジカルな改変はなぜ継承されないのか。

 立川流の落語は、何の変哲もない古典落語でした。
 そして、7代目立川談志という風雲児が落語協会と袂を分かち、家元を名乗って、自分の好きなように新しく作ったはずの流派の落語が、落語協会の落語とそれほど変わらないものに、いずれは収斂されていくとするのならば、家元の人生とは何だったのか、と考えてしまいました。
 家元を僭称し、ウンコのような御用評論家や、ウンコのような文化人をはべらせて、「俺は普通の落語家とは違うんだ」と口癖のように大言壮語して、若干はラジカルである落語を一応は開拓したはずの立川談志の死後に、組織の違い以外には、新しい落語の潮流が何も残らないのだとしたら、落語協会を飛び出た意味もなく、家元が生きた意味もなく、ただ弟子に苦労をさせただけ、ということにならないでしょうか。


 しかしながら、これは単に談志が悪いからということでもないようです。現代の落語家にとって、個人のレベルを超えて、古典落語のスタンダードを変容させることは、非常に困難な状況にあるからです。
 古典落語の定義にもよりますが、現代において広義の古典落語とされているネタには、明治大正期を舞台にした、かつての新作落語も多く、比較的新しい時代までスタンダードとなるネタの形には流動性があったようです。
 8代目桂文楽、5代目古今亭志ん生など、名人を多く輩出した昭和30年代までは、定番のネタの形にも、不確定な部分があったと考えられます。昭和の名人が偉大であるのは、噺の名人であったことに加え、一代で、スタンダードな古典落語を、現在あるスタンダードな形に完成させたという功績もあるようです。
 明治から、ぎりぎり昭和30年代くらいまでは、まだまだ古典落語には、スタンダードが変化する余地がありました。落語を変えたいという人が、理にかなった改変をすれば、それが他の落語家にも共鳴して、古典落語のスタンダード自体が動くということがありえたのです。
 ある落語家が10加えた変更が、他の落語家にも8くらいは受け継がれる可能性のあった時代でした。力のある個人の落語家が、古典落語に対し、パブリックな改変を行うことも、十分に可能だったのです。


 むろん、現代においても、個性的な落語を演じる落語家、古典に独自の改変を加えて演じる落語家は多いのですが、その改変は、あくまでプライベートなものであって、パブリックなものにはなっていないように思います。
 現代では、ある落語家がした改変が、他の落語家、弟子の落語家に、そのまま受け継がれるということは、ほとんどありません。独自のクスグリや演出方法など、細部が受け継がれることはもちろんあるのですが、個人の落語家がした工夫は、プライベートな手柄とみなされて、誰もが真似するようなパブリックな改変とはみなされません。1人の落語家が古典落語に10の改変をしたとして、他の落語家に受け継がれるのは、おおむね2くらいという時代のように感じます。
 例えば、3代目古今亭志ん朝は、古典落語に多くの工夫を加えて演じましたが、現代では、たとえ弟子筋とは言え、他の落語家がそれをそのまま演じることは、悪くすれば「志ん朝のパクリ」と言われかねません。
 また、ラジカルな落語を(出来はともあれ)演じた初代林家三平林家こん平の弟子筋にあたる林家たい平、9代目林家正蔵、2代目林家三平が、みな教科書通りの古典落語に回帰していることも、現代におけるラジカルな落語の伝承の難しさを示しています。


 落語のありかたが、パブリックなものから、プライベートなものに変化した傍証として、噺のマクラが挙げられます。現代の落語家のほとんどは、マクラに、自分の話か、時事ネタをしゃべるものです。そうしないと、現代の客と古典落語とを結び付けにくいのでしょう。
 しかし、昭和の名人の時代の録音を聴くと、マクラで小噺をすることはありますが、プライベートなこと、時事ネタ的なことを言っている例は、非常に少ないです。録音という条件もあったのかもしれませんが、観客にも明治大正の記憶があった時代であれば、マクラで、とりたてて現代について述べる必要性は、低かったのではないでしょうか。
 プライベートなマクラを振った古典落語が、かつてよりもプライベートなものになるのは、必然といってよいでしょう。また、プライベートなマクラの存在により、落語会に、個人的なことを話すことの場としての性格が、生じてきたことも確かでしょう。


 落語がプライベートなものになってきたという、もうひとつの象徴は、新作落語です。
 明治大正において新作として作られた落語は、基本的に誰が演じてもよいものでした。
 しかし、現在の寄席において、定番になっている新作落語は、3代目三遊亭円歌『中沢家の人々』、川柳川柳『ガーコン』など、ほとんどが自分語りになっています。作者以外の演者には、演じようのないプライベートなエピソードが、新作落語のネタになることが多くなっています。
 ただ、明治大正のレコードを復刻したCDを聴いたことがあるのですが、初代快楽亭ブラックが日常エッセイ的な落語をしていたりするので、落語家の自分語り自体の歴史は古いのかもしれません。なお、そのCDは雑音がひどくて聞き取るのがやっと、そのころは録音時間が短いので、1ネタは2〜3分しかありませんでした。


 現代において、落語家個人による古典落語の改変が伝承されにくいのには、おおむね以下のような背景があると思われます。


a. 個人の著作権に関する意識が高まった。


b. 昭和の名人の時代の録音が数多く残って、当代の師匠の落語だけではなく、先々代の世代にあたる師匠の落語も普通に聞けるようになった。


c. 昭和の名人の録音を、古典落語の標準とみなし、改変を行う場合には、そこからのズレを意識するようになった。弟子も、師匠の落語のアレンジ部分がどこかを容易に把握できるようになり、自分の落語では、場合によっては補正、校正を行うようになった。


d. 時代が進み、古典落語が50年前の話から、100年前の話になった。自分の経験と古典落語が直接つながらなくなり、古典へのつながりには、昭和の名人の経験を経由する必要が生じるようになった。


 このような状況下では、師匠による古典落語の改変をそのまま受け継ぎ、伝承することには困難が生じます。古典落語の改変は一代限りの工夫。そういう古典落語の成熟期に入っていると思われます。
 立川談志による古典落語の変革が消えていくのも、運命のようなものでしょう。

2.オチの改変には意味がない。オチの意味とは何か。

 古典落語の改変で、立川談志が妙に好んでいたのは、オチの改変です。より高度なギャグに切り替えよう、という意識があったようです。しかし、個人的には、オチの改変という行為には、彼が思っていたほどの効果はないと考えています。


 そもそも、寄席や落語界に来るような客の80%くらいは、噺の冒頭を聴けばオチがわかります。クラシックを聴きに来る客が、曲の終わりを知っているのと同じことです。基本的に、オチは拍手をするタイミングであり、笑うタイミングではありません。笑うタイミングでないところに、高度なギャグを持ってきても効果が低いのは自明でしょう。


 では、オチの役割とは何で、優れたオチの条件とは何なのでしょう。
 答えはひとつではないと思いますが、私が重視しているのは、オチが「フィクションと現実との結節点」である点です。
 優れた落語を聞いていると、噺の進行とともに、客はフィクションの深みへと徐々に運ばれていきます。オチの手前でフィクションは一段と深みにもぐり、結節点であるオチとともに、観客は急速に現実に引き戻されます。そこに落語特有の快感が生じます。
 私にとっての良い落語とは、「だんだんとフィクションの深みに運ばれて、最後でトントンと現実に戻ってくる」ものです。そのジェットコースター感を求めて、私は寄席に足を運びます。フィクションの深みから、テンポよく戻ってくること、その上昇の角度がきちんとついていることが、自分にとっての「良いオチ」の条件です。フィクションの深みを軽視して、新しく高度なギャグだから「良いオチ」になるだろうという考えは、浅はかでナンセンスだと思います。
 オチはオチのみで成立するのではなく、落語全体の構成のなかで評価されなくてはなりません。演者が観客のフィクションへの没入度を上手にコントロールして、オチの手前では、しばらく現実を忘れる状況にもってきてくれないと、どのようなオチであろうと、良いオチを味わったという感覚は得られません。


 落語の価値は、フィクションとしての旅の距離と旅の深さにあります。寄席で登場する落語家全員にそれを求めているわけではありませんが、せめてトリを務める落語家さんには、フィクションの長くて深い旅を楽しませていただきたいと思っています。落語の大ネタには、笑いよりも没入感を求めているのです。
 その意味で、羅列的で平板な立川談志の落語は、自分にとってはつまらないものです。談志には、噺を立体的に構成する構成力という資質が決定的に無く、噺を改変する場合にも、平板に並列にクスグリや描写を加えていくだけでした。観客を新たなステージに没入させる仕掛けなどは作りようもなく、しばしばオチをしらけきった気分で聴くことになりました。そのような状況で、仮にオチを高度なギャグに改変したところで、落語の評価など上がるはずもありません。
 また、談志は、落語への批評性を落語に取り入れたことで知られていますが、その取り組みは、どうも自分には、フィクションへの没入を損なうばかりで、あまり意味のあるものだとは思えないのです。次にはそれについて述べていこうと思います。

3.メタフィクションが有効で、メタ落語が有効でないわけ

 小説についての批評性を小説に持たせることをメタフィクションと言います。それにならって、落語についての批評性を落語に持たせることをメタ落語と呼ぶことにします。


 まずメタフィクションとは何かを理解していただくために、大江健三郎の小説の例を引きます。
 大江健三郎の小説でよくあるプロットは、「かつて小説のモデルにした人物から、作者に辛辣なクレームがあり、それに対処する」というものです。『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』、『河馬に噛まれる』などは、それを積み上げて連作短編集にしています。
 これらの作品では、フィクションに対してクレームがあり、それに対処していくうちに、それが次のフィクションへと離陸し、そのフィクションにもクレームが来て、という段階を繰り返して、フィクションという楼閣の上に、次々にフィクションの楼閣を積み上げていきます。そして、最終的に読者は、単純なフィクションではたどり着けないような、一般性の高みに、河馬が一匹浮いているような感覚を味わうのです。
 大江健三郎の場合、メタフィクションという手法を用いる目的も戦略も明らかです。フィクションと言う単段のロケットでは到達できない、フィクションの高みあるいは深みへと、メタフィクションという多段ロケットで到達しようというのです。
 大江健三郎に限らず、小説家が、戦略もないまま、メタフィクションと言う手法を使うことはありません。メタフィクションは綿密な戦略なくしては、効果があげられない難易度の高い仕組みなのです。


 それに対して、メタ落語のお粗末さはどうでしょう。
 小説と落語とは違いますが、落語に対する批評性を落語に組み入れることに、何か戦略やメリットは見えていたのでしょうか。立川談志のメタ落語は、落語への没入をさまたげる雑音としてしか機能していないように思います。戦略やメリット、目的も見えていないまま、メタ落語を行うのは愚かしいことです。
 立川談志の場合、「落語批評をしている俺は、他の落語家より偉いんだ」という空虚な自尊心だけで、目的も戦略も全くあいまいなままに、メタ落語をやっていたとしか思えないのです。その姿勢については、うすら馬鹿と言うのがふさわしいでしょう。

4.立川談志の落語CDは、なぜ死ぬほどつまらないのか。

 図書館で落語のCDを借りて、数十枚ほど聴いてみたのですが、聴いていて、演者を絞め殺したくなるほどに、下手くそでつまらなかったのが、林家たい平立川志の輔立川談志でした。
 以下では、立川談志の落語CDが、なぜ死ぬほどつまらないのかを解説していきます。

a. 「未熟な談志」のCDと「劣化した談志」のCDしかない

 談志の落語CDは、ともかく枚数が多いですが、図書館に多くあり、CDショップ店頭に多く並んでいるのは、若いころの談志の録音です。プライドが高い談志は、未熟な若いころに、すでに100枚規模の録音を残しています。浅いキャリアで多くの録音を残すことに、あわれな虚栄心をかけていたのかもしれません。
 このころの落語は、はっきり言って未熟で、聴くべきところはありません。しゃべりの技術だけはありますが、それだけのもので、それ以上の要素はありません。「談志らしさ」を味わいたい方には、肩透かしになります。


 談志の落語CDのもう一つのグループは、劣化した談志の録音です。自分だけが高級なことをしていると勘違いをしながら、技量が落ちて、聞くに堪えないCDの数々です。特に、録音スタジオで録音したものは、痛々しいほどの空回りっぷりです。
 全体的に構成が平板で羅列的でともかく浅く、芝居が野暮で非常にクドく、空虚なギャグがことごとく空回りしています。
 「談志らしさ」は味わえるかもしれませんが、「談志らしさ」というのは、要するに「羅列的で平板で芝居がクドくて野暮だ」ということは、理解しておいたほうが、ダメージは少ないでしょう。
 世間的に有名な『芝浜』の録音も、賢い女房という設定を談志が嫌ったのでしょう。女房を馬鹿みたいな女として演じたせいで、噺全体が馬鹿みたいな出来になっています。


 あなたが手に取る談志のCDは、高い確率で「未熟で聞く必要のない談志」か「劣化して聴くに堪えない談志」です。図書館で借りて聞くのさえ、時間の無駄です。おすすめはいたしません。

b. マクラがつまらない

 談志の落語自体は、特に「劣化した談志」において、平板で羅列的でつまらないとお伝えしましたが、噺のマクラも非常につまらないです。
 年寄りの愚痴と自慢話に終始しており、金を払って聴く義理もないような、益体もない無駄話です。人格障害サイコパス)の症例としては興味深いのかもしれませんが、人格の低劣さと、頭脳の愚劣さを示す駄弁で、通常の神経を持っていれば、聴いているのが苦痛になります。
 こんなものをありがたがっている信者の頭が、どれほど空虚なものかと考えると、空恐ろしくなるほどです。

c. 演目がつまらない

 談志は、演じられる演目が多いことが、偉い落語家の条件だ、と思っていたフシがあります。立川流の真打昇進の条件にも、演目数を重視していたそうです。
 もちろん、落語の保存という意味では、演目数が多いのは素晴らしいのですが、CDを聴く立場では、やや条件が異なります。
 談志のCDは、得意ネタに多くの録音を残すというよりも、多くの演目を網羅的にこなすことを眼目にしていました。したがって、談志のCDにおいては、マイナーなネタの割合が、非常に高くなっています。
 マイナーなネタの録音は、資料的な価値は高いとは思いますが、多くの場合、落語好きが聴いて面白いものにはなっていません。マイナーな噺には、もちろんマイナーなだけの理由があり、定番ネタと比べて平板でつまらない噺が多いものです。平板なネタを、平板な談志が演じるCDが、面白いはずもないことは、十分にご理解いただけると思います。