古今亭菊之丞の『浜野矩随』

 平成26年6月9日の落語会で、古今亭菊之丞のネタ下ろし『浜野矩随』を聴きました。
 『浜野矩随』というのは、彫刻の名人の父親が亡くなった後、技術の劣る息子矩随の苦心を描いた人情噺ですが、母親の自害というショッキングな出来事もあって、現代人にとっては、納得しやすい部分としにくい部分がある、古典落語のなかでも問題作と言っていい作品です。
 自害ということについては、男女が一緒になれないからと心中した時代、武士が腹を切った時代ですから、現代のモラルと江戸時代のモラルは当然異なるわけで、そのあたりが特に強く意識される演目です。


 さて、今回の落語会を聴く前に、予習として、古今亭志ん生の『浜野矩随(名工矩随)』の録音を聴いてから行ったのですが、菊之丞のものはアレンジが全く異なるのに、少々驚きました。
 古今亭菊之丞の師匠が古今亭円菊(故人)で、古今亭円菊の師匠が古今亭志ん生なので、このルートで伝承された落語には、その形跡が残るものですが、『浜野矩随』には、それが感じられませんでした。
 例えば、矩随母子の面倒をみている若狭屋がブチ切れるきっかけが、志ん生ではイノシシの彫り物、菊之丞では3本足の馬ですし、母親の自害は、志ん生では首つり、菊之丞では短刀で首を切って、と大きく異なります。
 落語家は基本的に師匠から演目を習うわけですが、真打となると、師匠以外の落語家から演目を習うことも可能です。伝承の芸なので、その演目を教わる師匠というのが、基本的には居るものです。古今亭のルートの他に、別演出の『浜野矩随』を伝承したルートがあったはずです。


 では、どのようなルートで菊之丞に伝承された演目なのか、そのあたりに興味が湧いてきたので、CD、DVD、YouTubeなどで、他の演者を調べてみました。
 『浜野矩随』はそれほどマイナーな噺ではないと思っていたのですが、録音は意外に少なくて、CDとなっているのは、古今亭志ん生のものと、5代目三遊亭圓楽のものだけでした。DVDになっているのは、5代目三遊亭圓楽のものだけ、YouTubeで録音が聴けるのは、古今亭志ん生古今亭志ん朝立川志の輔三遊亭圓楽の4人だけでした。
 三遊亭圓楽の師匠は三遊亭圓生立川志の輔の師匠は立川談志ですが、この2人は、落語界で最も数多くCDを残している2人です。この2人の口演が残っていないのは意外でした。


 まず、図書館で三遊亭圓楽の『浜野矩随』を借りてみたのですが、これがビンゴでした。古今亭菊之丞の『浜野矩随』は、間違いなく圓楽の流れを受けています。細部の演出に至るまで、かなり一致度が高いものでした。ただし、圓楽の『浜野』がトンカツならば、菊之丞の『浜野』はお茶漬け。印象は全く異なります。
 菊之丞の口演は、圓楽のものに、ほとんど何も加えていません。自分のオリジナルとして、ストーリーに付加したものは、無かったように思います。圓楽の口演が脚本として優れ、完成していたことを示しています。
 ただし、菊之丞は、若狭屋の台詞の説教臭い部分については、思い切ってバッサリとカットしていました。特に後半のボリュームについては、圓楽の口演の半分くらいになっていました。加えるのではなく、削ることによって個性を出したことになります。


 それによって、若狭屋の印象が薄くなっていったかというと、そうでないところが落語の面白いところです。菊之丞バージョンは、説教臭さを削ることによって、かえって若狭屋の多面性が浮き彫りになっていました。キャラクターを立体的に感じさせる、演劇性の高い菊之丞落語の特徴が出ていたように思います。
 若狭屋の如才ない商人としての部分、矩随に対する厳父としての部分、慈母としての部分、夫としての部分、主人としての部分など、いろいろな顔を持つ若狭屋という人物が、義侠心に厚い部分を強調せずに、説教を削り取ることで、むしろ明確に浮かび上がってきた印象でした。
 明らかな彫りそこないの三本足の馬で金をもらおうとした矩随の甘えを、職業人としてのモラルにおいて、若狭屋が許せなかった、という必然性もしっかり伝わってきました。
 母親が死ぬ理由については、なかなか解釈が難しいのですが、退路を断たないと開花しない才能もある、ということは伝わりました。


 YouTubeにある他の落語家の録音を聴いてみたところ、古今亭志ん朝の口演は、父親の古今亭志ん生に近いもの、立川志の輔の口演は、三遊亭圓楽に近いものであることが確認できました。両師匠とも自分なりのアレンジは加えていますが、原型については間違いがありません。
 志ん朝のアレンジは丁寧なディテールを加えて、臨場感を高めていくものです。これにより、現代の観客にも理解しやすい口演となっています。
 一方、志の輔のアレンジは、心理描写などを加えていくものですが、いささか蛇足の感はぬぐえませんでした。蛇足を加えて、拙い技術でモタモタと演じるものだから、志の輔の落語はだらだらと長くて、あまり感心しません。


 アレンジを加えることによって、演じる時間にも違いが出てきます。それぞれの演者の代表的なバージョンでの収録時間は以下のとおりとなっています。
  古今亭志ん生:24分50秒
  古今亭志ん朝:37分56秒
  三遊亭圓楽:34分26秒
  立川志の輔:46分35秒


 『浜野矩随』はもともと講談のネタなので、本来は講談についても調べるべきなのでしょうが、講談は好きではないので割愛しました。
 落語圓楽党を率いて、落語協会落語立川流とは距離のあった圓楽の『浜野矩随』が、どのような経路によるのかは不明ですが、落語協会の菊之丞や、落語立川流志の輔に伝わるマスターピースになっていた、というのはなかなか興味深かったです。
 『浜野矩随』の伝播について、模式図にすると、とりあえず以下のようになります