立川流の落語がつまらないわけ

 CDなどで立川流の落語家の噺を聴いていて、いろいろな落語家に共通して思うのは「キャラクターを演じることができていない」ということです。
 シチュエーションがあって、キャラクターがいて、ドラマが起こるという基本ができていない。おしなべて、平板で単調で退屈です。落語の歓びが無い。落語というワンダーランドなのに、全くセンス・オブ・ワンダーが感じられないのです。


 そして、考えてみれば、この弱点は師匠の立川談志と共通するものです。同じく、羅列的で平板で退屈です。退屈な落語を退屈とも思えないような、非常に知的レベルの低い観客に支えられて、彼はその弱点を克服できないまま死にました。


 立川談志という人間は、そもそも自分を甘やかすことにしか興味のない、幼児のような未熟な人間だったわけですが、彼の落語にも、そういった甘えが随所に出てきます。
 例えば、誰を演じても、性格の悪い似通った平板なキャラクターにしかなりません。それ以外の人物を描くときには、彼は著しく精彩を欠きました。それは、自分に甘えて、研鑽を怠ったからでしょう。


 彼は落語を「人間の業の肯定」と言っていたようですが、なんのことはありません。言い換えれば、「自分の芸の未熟さと性格の歪みから、性格の悪い人間しか描けない程度の能力しかなかった」というだけのことなのです。なおかつ、そこから抜け出そうとすら思わなかったと。それが「業の肯定」のお粗末な正体です。


 談志は自分が落語の最先端にいると思い込んでいたのでしょうが、実は周回遅れで最後尾にいたわけです。