愛宕山

 落語については、ほぼ初心者ですが、まあ初心者にふさわしく、落語について、底の浅い話でもいたしたいと思います。
 前にも日記に書きましたが、先日、若手真打の古今亭菊之丞の落語CDを買いまして、何度か聴いているうちに、ほかの演者の落語と聴き比べたくなりました。


 そこで、『愛宕山』という演目について、CDを揃えて、昭和の名人である八代目桂文楽、同門古今亭の大看板である古今亭志ん朝、そして古今亭菊之丞とを聴き比べてみました。


 数ある名人のなかで桂文楽を選んだのは、古今亭菊之丞桂文楽の弟子から稽古をつけてもらった噺がいくつかあり、おそらく『愛宕山』もそのひとつだと思われたからです。
 また、桂文楽は、CDにおさめられた菊之丞の落語『法事の茶』で声色が演じられており、古今亭志ん朝は、同じ『法事の茶』で、マクラの思い出話に登場しているという縁もあります。
 落語の良し悪しは私にはよく分かりません。このレベルになると、どの演者の噺も面白いと感じるだけです。ここでは、噺の筋立てのみを比べることにします。


 基本の筋立てについては、古今亭菊之丞の『愛宕山』は、桂文楽のものを、非常に忠実に継承しています。「さわらびのにぎりこぶしを…」といったくだりも同じです。
 それに対し、同じ古今亭でも、志ん朝の『愛宕山』は、かなり独自のアレンジがされています。例えば、前日の宴会から噺を始める点や、かわらけ投げの的の形など、いろいろなディティールが異なります。このように優れたアレンジができるところも、名人の名人たるゆえんでしょう。


 ただ、この3者で明らかに違うのは、「茂三」という人物の設定です。
 『愛宕山』は、京都に遊山旅に来た東京の大店の旦那と、東京の幇間一八が、京都の芸妓、芸人をひきつれて、愛宕山に登るという噺です。そのなかで、茂三は、一八の尻を押して山を登らせたり、一八の背中を押して谷底につき落としたりする、重要な脇役となっています。
 桂文楽の茂三は、正体がよくわかりません。ただし、東京の言葉をしゃべることから、東京の芸人であることが推測されます。
 一方、古今亭志ん朝の茂三は、旦那の店の奉公人という設定です。かなり細かくディティールが描かれます。
 これに対して、古今亭菊之丞の茂三は、大阪の幇間という設定になっています。この点に関しては、桂文楽のものとは明確に設定が異なります。噺のなかで、彼の大阪言葉は非常に印象的です。このアレンジが、菊之丞独自のものなのか、先達がいるのかは分かりませんが、その意図するところは明確で、極めて高い効果をあげています。
 桂文楽の『愛宕山』は、京都を舞台にしていますが、登場人物はみな東京人、台詞はすべて東京弁です。純然たる江戸前落語になっており、京都の言葉も、大阪の言葉もでてきません。もともとは上方落語であったこの噺を、完全に東京ナイズしているわけで、さすがは東京を代表する大名人の仕事と言えるでしょう。
 それに対して、古今亭菊之丞の『愛宕山』は、基本の筋立ては桂文楽のものに忠実でありながら、芸妓の京言葉や、茂三の大阪言葉を、アクセントとして配している点に、大きな違いがあります。京都を舞台にした東京落語で、東京、京都、大阪の三都市の言葉が交錯することで、立体的な面白みが生まれ、地理的な広がりを感じさせる出来栄えになっています。ある意味、上方落語に、少しだけ先祖返りしているのかもしれません。


 古典落語というのは、筋立てがすでに完成しているわけで、筋立てを壊してしまっては、伝統の継承ができません。しかし、筋立ての工夫が一切なくなって、テープレコーダーのようになってしまっては、現代の文化としての価値はなくなってしまいます。
 現代における古典落語の演者たちは、アレンジを加えるか、もとの姿を守るか、そのギリギリのバランスのなかで、自分の芸を磨いているのでしょう。



古今亭菊之丞 名演集2 三味線栗毛/法事の茶

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古今亭菊之丞 名演集3 「素人鰻/景清」

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十八番集

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落語名人会 3

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