素人鰻

 落語『素人鰻』には、主人の中村の旦那、客人の麻布の旦那、鰻割きの職人の神田川の金が登場します。
 徳川瓦解を受けて、奉還金で鰻屋をはじめる中村の旦那、腕はいいが酒乱の金が、酒を断って奉公するというのですが、客人の麻布の旦那が、開店祝いだと金に酒を飲ませてしまい…という噺。
 金は、旦那には大恩があると思い出話を語りながら、杯を重ねて、しだいに乱れていき、しまいには大いに乱れて、旦那に毒づいて飛び出していくことになります。その過程が、この噺の大きな聴きどころとなります。
 金は、酒を飲みながら、酒の相手の旦那に対し、先代の殿様のころから恩がある、水戸様の屋敷で旦那に命を助けていただいた、一緒に吉原に行って間違えて旦那の頭をぶった、などと語るわけですが、さて、これは主人の中村の旦那、客人の麻布の旦那、どちらとの間のエピソードと考えるべきでしょうか。


 演者によって、これは異なるようなのです。八代目桂文楽の『素人鰻』では、酒の相手は客人の麻布の旦那、金の命を助けたのも麻布の旦那ということになっています。
 これはある意味合理的です。断酒した金に酒をすすめたのは、麻布の旦那ですから、酒の相手は麻布の旦那とするほうが、理屈にあっています。中村の旦那は黙認するかたちですから、あんまり酒の相手をするのもおかしいですし。


 しかしながら、この落語は、主人と職人の噺です。職人の金が、主人に対し、大きな恩義を感じてもいるし、多少うとましくも思っている、というあたりの関係性が聴きどころになっています。
 ですから、水戸様の屋敷で金の命を救ったのは、主人である中村の旦那だとしたほうが、主人と職人の絆が強くなり、物語の焦点がぴたりとあって、落語としてはずっと面白くなるでしょう。
 合理性をとれば、金の相手は客人の麻布の旦那とするほうがよいのですが、噺の面白さからすれば、金の相手は主人の中村の旦那とするほうが、より効果的です。


 古今亭菊之丞の『素人鰻』は、基本的に桂文楽の筋立てを継承しているのですが、金の酒の相手について、おそらくは意図的に明言することを避けています。聴衆は、たぶん中村の旦那だろうな、と思いながら聴くことになります。
 もしも、酒の相手が中村の旦那だと明言してしまうと、酒を断たせたい主人が、職人に酒を飲ませ続けるという不合理が、目立ちすぎてしまいます。
 麻布の旦那とも、中村の旦那とも明言せず、聴衆に判断をゆだねつつも、中村の旦那のほうに若干誘導するという方法は、『素人鰻』という噺が構造的に持っている弱点を、上手にカバーするテクニックになっているように思います。