おおかみこどもの雨と雪

 2時間を映画に吸い込まれて、気が付くと10年も年をとってしまった気分になる不思議な作品。観客の人生経験を反射して輝きを放つので、老若男女を問わず多種多様の人々に観てもらいたいです。


 特筆すべきはエンターテインメントではないこと。これまでの多くのアニメーション映画は、エンターテインメントか、あるいはアートかに、分類されてきましたが、そのどちらでもない真摯な作品です。エンターテインメントでもアートでもないという意味では、高畑勲の作品群に近い部分がありますが、人生の断片を描いたそれらよりも、13年間を描く本作は、より人生全体にアプローチしています。
 サマーウォーズが「カフェオレ」なら、おおかみこどもの雨と雪は「無糖ブラック」。甘くないことを覚悟してください。甘くないので観客を選ぶ部分はありますが、そのぶん味わいは深いです。


 観客は、この映画を観ることで、花とおおかみこどもの13年間の人生を追体験すること、「再び生きる」ことが可能になります。
 他人の人生の追体験が何度でもできること、それは本当の人生が1回きりであることに対する、映画のマジックです。その意味で、この映画を観た感想は、花たちの人生を「生き直してみた」シミュレーションに対する感想となっています。
 深く没入して感動する人もいれば、入り口で戸惑ってしまう人もいるでしょう。それは、ものが「人生」だけに仕方のないことかもしれません。この作品は、鏡のように観客の精神を反射します。
 ただし、様々な比喩や暗喩がタペストリーのように組み合わさった、この物語を追体験したのに対し、その構造を全く解析することもなく、ただ「オタクキモい」、「純愛キモい」、「おおかみこどもキモい」といった、ごく表層の印象でしか、この人生の追体験を語れなかった映画評論家もいます。この人は、映画評論家を名乗るには、人生に対する態度や、存在そのものが、無残なほどに薄っぺらいと思うのです。前田有一氏のこの評論のことを言っています。


(以降ネタバレ)
 映画を観て個人的に非常に印象深かったのは、花と草平の相似性、彼から花への告白と、雪から草平への告白の相似性です。花と草平は、二人とも「おおかみが嫌いじゃなくて」、「秘密が守れて」、「苦しい時でも笑っていられる」人間です。こういう人間が傍らにいるとき、おおかみ人間は、その秘密を明かし、人間としての人生を、自信を持って、ともに歩くことができるのです。この物語の主なギミックのひとつは、おおかみおとこ→花→雪→草平への、世代を超えた秘密の継承でしょう。


 重要な暗喩となっているのが、雨の人生の選択のありかたと花の受け入れです。人が人として生まれた以上、人間らしく生きてほしいと願うのはヒューマニズムの基本です。狼との混血児だからと言って、狼として生きることは受容しがたい。しがたいけれども、受け入れなくてはならないのは、このエピソードが「子供が親の意向と異なる人生を歩もうとしても、それが社会道徳に反しない限り、親はそれを送り出してやらなくてはならない」ことの暗喩となっているからです。この物語において、それを提示することは必然であり、従って、雨の自立、親離れも必然でした。


 花が学生で子供を儲けたことに対して、軽率であるとの批判もあるようです。しかし、もし、おおかみおとこが生きていたら、小学校入学までの何年間か、貯金を食いつぶしながら、おおかみおとこが育児を行い、花は一橋大学に復学、キャリアを生かした就職に成功。その後、週末には山に通いながら、都会で二人を子育て、みたいな未来設計があったことは、二人のキャラクターをみていれば、容易に想像がつくと思うのですが。
 おおかみおとこが死んだ時点で、保育園に預けられない幼児の問題は必ず発生します。花が勉学の道をあきらめたのは、子供を全く保育園にあずけないでも、仕事ができる道が現在の日本では厳しかったからと思えば、納得できます。
 また、エンディング後の花については、家庭菜園で野菜をつくる量は減るのでしょうから、より仕事に力点を置いた生活になっていくのではないでしょうか。雨のいる山を完全に離れることはないにしても、週末だけ山に帰って、残りは町で働くという選択肢もあるように思うのです。花の子離れ、自己実現はまだまだ終わっていないと考えます。


 おおかみおとこが死んだ時点で、それぞれの家族は、やはりなにかをあきらめなくてはなりませんでした。花で言えば、勉学と都会での就職をあきらめ、雪には狼としての修業の不足が生じ、雨には小学生としての修業に不足が生じました。大きな欠損から始まった物語です。なにもかもが十全で思い通りにいかなくて当然です。それが人生です。


 また、花の田舎生活はたまたまうまくいったのであって、もし、子供が大病をするとか、生活に困窮して子育てが困難になるとかしたならば、おおかみこどもを世間にカミングアウトして、それこそ児童相談所と二人三脚で、行政の援助を受けながら育児をするというパラレルワールドの可能性も、この映画からは、きちんと見えてくるのです。そうなったら、全く違うテーマの映画になりますが、この映画の花が、子供が大病になった時、それを拒否するとは思えません。


 姉弟の別れがあっさりしすぎていたのは、ご覧のとおりですが、別れ際の台詞は意味深長なものです。「あんたが母さんのそばにいてやりなよ」と雪は言ったのです。雨は狼として、母の家のある山一帯を統括し、母は雨の遠吠えを聞く生活となりました。雪の言葉は実現したのです。


以下雑感


 おおかみこどもというのは、子供を育てるうえでのハードルの隠喩であるから、描いているのは子育て一般の問題である。レアケースではない。


 13年間を忠実に描くためには13年間の時間が必要。それを2時間に縮めた以上、エピソードの大幅な絞り込みは必然である。苦しいことも楽しいことも沢山あったはずで、それをどういうバランスで配するかは監督のさじ加減。あれの描写が足りない、これの描写が足りないという前に、これだけのエピソードに絞り込んだ意味を考えるべき。


 雨と雪というのは子供の名前だが、気象現象の雨と雪も物語に深くかかわっている。中盤の雪のシーン、終盤の雨のシーンは忘れがたい。


 『サマーウォーズ』から、陣内由美さんがカメオ出演移動図書館のシーンと体育館のシーンに出てきたはず。