地上波放送を前に、原作読者が映画『ゲド戦記』を酷評する

(放映日の7月11日まで、トップ固定。6月29日の記事の再掲です。)


 7月11日に、映画『ゲド戦記』の地上波放映があるようです。それを前に、原作の読者として、この映画について、言いたいことを言っておこうと思います。
 ただし、原作小説と映画のDVDは、人に貸していて、現在手元にありません。記憶に基づいて書くので、不正確な部分があるのは、お許しください。勘違い等がありましたら、ご指摘ください。

1.この作品は逃げている

 このことを指摘している映画評が少なかったことが、私がこの文章を書こうと思ったきっかけです。この映画は、『逃げ』の姿勢で製作されています。
 『逃げるな、向き合え』というテーマの映画であるにも関わらず、原作の持つ映像化の難しい部分から、逃げて、逃げて、逃げまくっています。
 原作小説が、知の大伽藍だとするならば、映画版は、それを爆破して、その跡地に作ったバラック建築です。安易に映像化できる部材だけを、あちこちから掻き集めて作った、せせこましいバラックです。


 映画『ゲド戦記』は、当初、原作の3巻に基づいて作られるとアナウンスされました。それを聞いて、私たち原作の読者は、胸を躍らせたものです。
 原作の3巻のタイトルは『さいはての島へ』といいます。スケールの大きな冒険が描かれていて、映像化されたら、どんなに素晴らしいだろうと思わせる、いくつもの魅力的な舞台にあふれていたのです。
 ここで原作3巻『さいはての島へ』のあらすじをお話します。
 ネタバレになってしまいますが、大丈夫。原作小説は、新鮮な驚きにあふれた優れた物語で、ストーリーを知って読んでも、十二分に楽しめることを保障します。でも、できれば1巻から読んで下さい。


 『さいはての島へ』は、ロークの魔法学院に、エンラッドの王子アレン(レバンネン)が、父親の命を受け、国許の異変を伝えるためにやってくるところから始まります。(アレンは父親殺しなどしません。快活で素直な少年です。)ロークの魔法学院は、この世界全体の魔法の学校で、世界の均衡を保つために重要な役割を果たしています。魔法の専門分野ごとに長がいて、学院長をハイタカ(ゲド)が務めています。
 ゲド戦記の舞台は、多島海と呼ばれており、多くの島々から成り立っています。その島々のなかでも、ロークの島は特別な敬意を払われており、ロークの魔法学院は、荘厳で複雑で幻想的な存在です。ここで、アレンは新鮮な驚きをもって魔法学院を見てまわり、ハイタカと出会います。その場面の魅力的なこと!
 ハイタカは、エンラッドから魔法の力が失われつつあることを聞き、この世界全体の均衡が崩れつつあることを知ります。そして、長たちを説得して、経験の浅い王子アレンと二人だけで、その原因究明と解決のために、旅に出ることになります。ハイタカは、アレンが、特別な運命を持った少年であることを見抜いていたのです。
 長い旅の末、二人は、荒涼とした世界の果ての島(さいはての島)にたどりつきます。そこには、生と死の世界を隔てる石垣がありました。これこそが、竜と人とを隔て、この世界と魔法とを定義している、唯一の契約の石垣でした。
 世界の異変は、この石垣に開いた穴が原因でした。魔法使いクモが、この穴を開けて、生と死の境を壊してしまったのです。二人はクモと戦い、死の国へと足を踏み入れます。そして、クモを倒し、ハイタカは、持てる魔力の全てを使って、死の国から、その穴を閉じるのです。
 アレンは、魔力を失い、力尽きたハイタカを連れて、死の国の山を登り、壮絶な苦難の末に、生の国へと生還します。そこで待っていたのは、竜でした。竜は二人を乗せて飛立ちます。
 アレンは、死の国から戻った者として、古くからの予言に従い、長らく空位であった、世界の王になるという運命を背負うことになります。そして、力を失ったハイタカは、竜に乗って故郷の島ゴントへと戻ります。


 不正確ではありますが、原作小説のあらすじは以上です。
 ゲド戦記を映画化すると聞いて、原作ファンならば、誰しも、あのロークの魔法学院が、どのように映像化されるだろうと、楽しみにしていたはずです。そして、世界の果てを、生と死を分かつ石垣を、死の国の山を、どんな風景として描くのかについて、想像を巡らせていたことでしょう。
 ところが、宮崎吾朗監督は、ロークの魔法学院を一切描きませんでした。最高に魅力的な舞台だというのに!
 彼は、映像化が難しい魔法学院の描写から逃げたのです。映像作家として、信じがたい選択です。原作でのロークの魔法学院の描写を読んで、その映像化に挑もうともしない人間が、映画監督をしていることが信じられません。
 さいはての島も描きませんでした。生と死を分かつ石垣も描きませんでした。多島海の航海も描きませんでした。
 それらの描写から逃げ回り、その代わりに、ひとつの島の中だけで、物語を完結させてしまいました。これは、指輪物語で言えば、ホビット庄から一歩も出ないで、物語を終わらせてしまうような暴挙です。
 映画で描かれるのは、原作で具体的な描写のある4巻などの風景や、『シュナの旅』からの引用、過去の宮崎映画からの引用など、誰にでも安易に映像化できる風景だけです。挑戦をしない映像作家は、かくも惨めかと思わされました。


 映画で語られる生と死の扉は、原作とは異なるものです。驚いたことに、映画では、その扉の映像化さえも、していません。映像化が難しいから、台詞だけで済ませて、逃げたのです。だから、結局、その扉が開いていたのか、開く前だったのか、観客には曖昧なままで終わってしまいました。これでは映画の主題も何もあったものではありません。


 そういえば、この映画のキャラクターデザインも、逃げの姿勢で作られています。キャラクターデザインについては後述しますが、原作4巻、5巻で登場するテルーの火傷は、とてもひどいものです。この映画は、みにくい火傷痕を描写することからも、逃げてしまっています。ただし、これには、多少やむを得ない部分もあるかなと思います。

2.『少女の映画』にすることの困難、原作の捻じ曲げ

 宮崎吾朗監督は、原作の3巻を忠実に映像化せずに、3巻と4巻と『シュナの旅』を混ぜ合わせて、見るも無残なストーリーに作り変えました。


 では、なぜ3巻を素直に映像化しなかったのでしょう。ひとつには、先ほど述べたように映像化が難しいので、逃げたという面があったと思います。
 そして、もうひとつの理由として、映画に『ヒロイン』が欲しかったという事情が、あったものと思われます。
 基本的に父親の宮崎駿監督の映画は、どれも『少女の映画』です。世間的にも、そのイメージは、とても強いです。宮崎吾朗の映画にも、宮崎駿監督の路線を継承させたいと画策した人間は、吾朗の映画にも、『ヒロインの少女』が必要であると考えたのではないでしょうか。
 ところが、原作の3巻は、徹頭徹尾、男のストーリーで、ヒロインになるような女性キャラクターは存在しないのです。困った末に、原作の4巻から、テルーという少女を借りてくることを思いついたのではないでしょうか。
 しかしながら、原作の4巻は、ハイタカが魔法の力を完全に失ってからの物語です。大魔法使いハイタカと、原作4巻の舞台とは、本来相容れないものなのです。相容れないものを無理にくっつけた結果が、映画『ゲド戦記』に、様々な違和感をもたらすこととなりました。


 また、宮崎吾朗監督は、小冊子『ゲドを読む』のなかで、
「最後に死者の国に行くんですが、全部を原作に書かれたままやっても面白くないと思ったんです。」
と、原作へのリスペクトの欠片も無い発言もしています。世界的な名作について、本当にそう思っているのなら、映画化なんかしないで下さい。

3.宮崎吾朗監督は、決断力のある方向音痴である

 2006年夏には、3本のアニメ映画が公開されました。『ゲド戦記』、『ブレイブストーリー』、『時をかける少女』です。この3本には共通点があります。
 いずれも広義のファンタジーであること、少年少女を主人公としていること、若い世代に見てもらいたいと思って作られたこと、などです。
 若い世代にファンタジーを通じて、何かを訴えたい、閉塞感のある今の時代に、それが必要だ、という認識は一致していたものと思われます。その意図は尊いものですし、共感もできます。
 ただし、そのアプローチ方法は、各作品によって異なりました。各作品とも、現代社会が抱える複雑な諸問題を考えると、ファンタジー映画だからといって、ファンタジックな舞台で、ファンタジックな人物が活躍するだけではいけないと思って、それぞれにアプローチ方法を工夫したのです。
 『時をかける少女』の細田守監督はこう語っています。「主人公をリアルなものにして、そのぶん世界をファンタジックにするか、それとも、その逆か、というときに、絶対に後者のほうがいいと。つまり世界のほうが現実的であって、その枠組みを超えるのが、主人公、というふうに設定したわけです。」
 かくして、『時をかける少女』は、ファンタジックな少女が、リアルな世界で活躍する映画となりました。
 それに対して、『ブレイブストーリー』は、原作からして前者です。リアルで深刻な問題を抱えた少年が、ファンタジックな世界を冒険します。これも、現代に通用する物語をつくる、ひとつの方法でしょう。
 宮崎吾朗監督の『ゲド戦記』はどうでしょう。主人公にも、世界にも、監督は自分の考える現代社会のリアルを、中途半端に反映させようとしたようです。
 そして、唐突な親殺しなどを挿入し、結果として失敗してしまったように思います。主人公にも、世界にも、魅力が感じられなくなってしまいました。その意味で、吾朗監督は、物語の舵取りを誤ったのです。


 小冊子『ゲドを読む』のなかで、宮崎吾朗監督は、故河合隼雄氏と対談をしています。そのなかから、吾朗監督の発言のいくつかを抜き出してみます。いずれも、原作読者には、ちょっと信じられない発言です。
 彼が、原作小説の魅力を信じていないこと、現在の若者を信じていないことが、伝わってきます。その彼が、原作小説を映画化して、現在の若者たちにそれを見せて、何をしたかったのでしょう。
 以下の発言を読むと、彼は、物語に対して、決断力のある方向音痴だったことが、判断できます。監督の役割は、映画が面白いほうへ向かうように、正しく舵を切ることです。しかし、彼は、物語を破綻させる方向へ、破綻させる方向へ、決然と舵を切っています。


発言1
 「僕は鈴木に「父親殺しをするんだ」と言われて、腑におちたところが大分あるんです。(中略)今の若者の気分で言えば、もうこれ以上は我慢できないという感覚だと思うんです。(中略)アレン本人も、何でそうしたかは理屈ではわからないと思う。僕としては、アレンその人になって作品をつくったつもりはないんです。アレンという子がわからないから、ずっと横に立って彼を見ていた感じです。」
 アレン本人にも、監督にもわからないことが、どうして観客に伝わるでしょう。


発言2
 「第三巻には生と死の問題が書かれていますが、では、生きていくってなんだろうという話が、どうしても欲しかったんです。そう考えると言葉だけで通じる観念の部分よりも、具体で書かれている部分がいるのではないかと。それがないとやっている僕らのほうが納得できない。ですから、第三巻と言いつつ、途中から第四巻の要素が入っていったんです。」
 「第三巻の生と死のテーマは、非常に観念的ですからね。それで改めて全巻を読み返してみると、随分時間が経ってから書かれた第四巻以降は、非常に具体的な内容なんです。そっちをやったほうが時代的にも合うと思ったし、僕としても面白いと感じたんです。」
 具体で描かれていないと映像化もできないクリエイター宮崎吾朗


発言3
 「アレンが父親を殺してゲドと出会い、ある地点に辿り着いたはいいけれども、その先をどうするのか。現代の青年のような少年アレンは、いったい何によって自分のバランスを回復するんだろうというのがなかなか見えなかった。ゲドのようなおじさんに諭されて、納得して何とか回復していくということではないと思ったし。」
 ハイタカ(ゲド)が、この映画では不要なキャラクターだったことを、監督自身が暴露しています。


発言4
 「ですから、ゲドのように上の存在ではなく、同じ高さにいるけれども反対側の存在であるテルー。ああいう人にひっぱたかれないと目が覚めない気がしたんです。」
 テルーが、アレンと反対側の存在であることを示す描写が、映画では決定的に欠けています。原作4巻では、テルーが、親に虐待され、殺されかけた子供で、テナーに救われ、献身的な看病によって回復したキャラクターであることを、観客に知らせなければ、何も伝わりません。


発言5
 「原作のアレンはゲドを崇拝していて、しかも前向きなんですよ。自分が何者かになりたいという思いがあって、行動もすごく積極的です。しかし自分の周りにいる若い人たちを見ると、ここまで積極性があるのかと疑問を感じるんです。」
 宮崎吾朗監督の現代の若者への不信は根強いようです。


発言6
「原作にあるような少年像を描いてしまうと、下手をすればただの能天気なキャラクターになってしまう。そういう少年が突然死に対して怖がってみたりということにしかならないと感じたのです。結局、僕が感じた今の子供たちというものにアレンを置き換えないと、物語の最後まで辿り着くことはできないだろうと。」
 監督が感じた今の子供たちは、みんな理由も無く親を殺したりするんでしょうか。


発言7
「原作では世界のバランスが崩れているのは、クモという魔法使いがあの世とこの世の境にある扉を開けたせいではないかと。それを塞げば均衡は戻るという書き方。でも、それはないだろうと感じたんです。」
 出たー! 最大級の問題発言。ここまで原作の基本を否定してしまうとは。原作読者としては、唖然とするほかありません。


発言8
 「もう均衡を崩す扉はあちこちで開いているだろうと。ひとつ塞いでも、どこかで開けている奴が他にも沢山いると思ったんです。それと、クモ一人に全体のバランスが崩れた原因を負わせるということは、僕にはできなかった。ですから世界をおかしくしている一人という形にしかならなかったですね。」
 この解釈が、物語を破綻させています。詳しくは後述します。


発言9
 インタビュアー −実際、あの後アレンが国に帰ったとしても、到底安泰ではあり得ないでしょう。そういうことを含めて、終わってよかったではすまないですよね?
 「作っている時から散々回りに言われました。「このまま帰ったら、アレンはどうするんですか」と。父親は実は生きていたとかそういう救い方はないのかと大分言われたんです。でもそれをやってしまったら、あの映画で描いてきたことは茶番だったのかということになってしまう。」
 インタビュアーGJ。散々周りに言われても、意見を曲げなかった吾朗監督。まさに、決断力のある方向音痴の、面目躍如といったところでしょうか。
 吾朗監督は、別所で、アレンは国に帰ったら、幽閉か処刑だ、というようなことを言っていたようです。アレンの死を予感させる広告もあったようです。後述しますが、主人公が処刑されて終わるビルディングスロマンって、何なんでしょう。


 以上の発言を読んでいただければ明らかなように、吾朗監督は原作を読み込んでいますが、その読解力は決定的に不足しています。失礼ながら、小学生の国語のテストでも落第点を取るレベルの、読解力のなさです。
 味覚音痴に料理人が務まらないように、物語音痴には映画監督など務まらないのです。
 また、現状の若者に対する問題意識だけがあって、処方箋を持っているわけではありません。それなのに、無理やり結論を出そうとするから、物語が非常に安っぽくなるのです。

4.物語がゆがんでいる

 上記の宮崎吾朗監督の発言8ですが、これが、どういうことかと言うと、この映画は
「世界の均衡が崩れたので大賢人ハイタカは旅に出た。旅の途中で悪い魔法使いを倒したが、均衡を乱す原因は他にもあったので、世界の均衡は戻らなかった。終わり。」
という物語になるのです。これでは、物語の体をなしていません。


 アレンの運命についても、同じです。発言9に基づいて、この映画をまとめると
「父親を殺し、自分の命を大切にしないアレンは、テルーたちと出会って、命の大切さに目覚めた。命の大切さに気づいたアレンは、国許に帰って処刑されるのだった。終わり。」
となります。これも、物語としては、どうでしょう。
 本当にこんな物語を描きたいのなら、きちんとアレンが国に帰って、断頭台の露と消えるところまで、描ききるべきでしょう。アレンの死を描かず、テルーとの別れで終わりにしてしまうのは、逃げでしかありません。


 いずれにしても、エンターテインメントとしても、真剣な物語としても、破綻しています。物語の構造が、ゆがんでしまっているのです。

5.原作へのリスペクトが無い

 映画を見た原作読者が、最も怒っているのは、アレンの設定の変更でしょう。世界の王となるべき人物を、父親殺しの殺人者にしてしまったわけですから。原作への敬意が少しでもあれば、このような極端な改変は出来ないはずです。
 監督の宮崎吾朗氏は、それなりに原作を読み込んでいるようですが、先述のとおり、その読解力にはいささかの問題があります。さらに問題となるのは、プロデューサーの鈴木敏夫氏の姿勢です。
 父親殺しを提案したのは、鈴木プロデューサーです。鈴木プロデューサーは、原作小説にリスペクトを持っていたのでしょうか。
 私は、鈴木プロデューサーが、そもそも原作を、まともに読んでいたのかさえも、疑問に思っています。父親殺しは、原作に敬意を持っている人間が、思いつくような助言ではないと考えるからです。

6.宮崎駿からの借り物である

 この映画の製作が始まってから、宮崎吾朗監督は、宮崎駿氏と、一切口をきかなかったそうです。それ自体、原作者ル=グィン氏への裏切りであるのですが、とりあえず、ここでは、そのことは問わないことにします。
 問題は、宮崎駿氏とのコミュニケーションを断って、製作したのに、出来上がったものが宮崎作品の劣化コピーにしか見えないものになったことです。随所に宮崎駿氏の影響が透けて見える出来となっています。


キャラクターデザイン
 まずは、キャラクターデザインです。スタジオジブリでは、キャラクターデザイナーを公表していませんが、おそらく作画監督のどなたかでしょう。
 このキャラクターデザイン、知らない人が見たら、宮崎駿デザインかと間違うような仕上がりになっています。なぜ、こんなオリジナリティの無いデザインにしたのでしょう。おそらくは商売を考えてのことでしょうが、実につまらないことです。
 宮崎駿の呪縛から逃れれば、キャラクターデザインの自由度は無限にあったはずなのに。
 ちなみに、原作のハイタカたち(テナー除く)は、ネイティブアメリカンのような有色人種をイメージしています。また、先に述べたように、テルーの火傷跡は、原作ではずっと重症です。


ホートタウンのデザイン
 映画の舞台のひとつとなるホートタウンは、宮崎駿氏のスケッチや、『シュナの旅』を手引きにして描かれているようです。そういうことをするならば、吾朗監督は、宮崎駿氏と、しっかりディスカッションをしながら、映画作りをするべきでした。


クロード・ロラン風の背景
 これも宮崎駿氏の一言が元になって決まったようです。そんな主体性の無いことで良いのでしょうか。

7.キャラクターの描き込みが足りない

 まず、悪役のクモの行動原理が不明です。何を考えて、アレンやハイタカたちに手を出したのか、全くわかりません。
 奴隷狩りのシーンも疑問です。奴隷労働のシーンが抜けているため、何のために奴隷が必要なのか描かれていません。これは重大な手落ちです。だから、クモがなぜ奴隷狩りに手を染めているのかも疑問のままです。
 また、先述のとおり、テルーの過去についての描写も、決定的に欠けています。ハイタカやテナーの、過去の冒険が全く語られないのも物足りません。

8.ライバルはピーター・ジャクソンである

 原作ゲド戦記は、世界的に高名なファンタジーです。指輪物語ナルニア国物語と並べて語られることも、多い作品です、その意味で、宮崎吾朗監督のライバルは、指輪物語ピーター・ジャクソン監督とも言うことができます。
 すなわち、映画『ロード・オブ・ザ・リング』の出来と、映画『ゲド戦記』の出来が、比較されることになるわけです。それは、ジブリの恥ということだけにとどまらず、日本のアニメーションの恥、日本の恥となります。

9.宮崎吾朗はアレンであった

 小冊子『ゲドを読む』のなかで、原作の翻訳者の清水真砂子氏は、映画公開前に、映画版『ゲド戦記』への期待を、宮崎吾朗監督への信頼とともに述べています。
 その文章を読むと、清水氏は、吾朗監督のことを原作のアレン(レバンネン)のように思っていたようです。
 確かに、吾朗監督には、原作版のアレンになれるチャンスがありました。宮崎駿氏とともに世界の果てまで旅をして、力を失った駿氏を、世界の果てから連れ帰り、正当な王として、ジブリに君臨する。不可能ではなかったはずです。
 しかし、実際の吾朗監督は、映画版のアレンとなりました。父との関係を断ち、目の前の仕事は片付けたものの、国許に帰って、罪を償わなければならないアレンです。
 第二回監督作品のチャンスがあるのかは知りませんが、観客の声に素直に耳を傾け、真剣に反省をしていただきたいものです。


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